シュリカリヨガ@雨引観音ご参加ありがとうございました

今回の雨引観音でのシュリカリヨガ、初回とは打って変わって暑い暑い夏日。

一面に広がる青空と関東平野を眺める人、お宮参りのご家族で今日も境内は賑わっていました。


個人的にはエアコンは苦手なのですが、流石にまづいかなっと感じる暑さだったので、

エアコンをオンにして、私たちがアシュラムで毎朝行なっているマッサージから始めてみました。


ペアを組んでお互いの体を足を使ってほぐしていくのですが、最初はみんな順番も足の使い方も

見よう見まね、受ける側も次はどうくるんだろう?っと、お互い緊張し構えます。

緊張しながらでも、一歩一歩丁寧に足を置くことで、少しづつお互いのリズムが近づいていく感じ。

解剖学的に経絡がどうとか、骨を強くするとか、いくらでも理論はありますが、

私がここで伝えたいことはマッサージすることは、音として発する言葉を超えた

コミュニケーションであるということ。


「ほぐす」という技術を得るのではなく、目の前にいる人を「神聖な存在」として

見ることを養っていくきっかけです。


相手はどこが心地いいのか。”これ以上は嫌かな?““もう少しいけるかな。”


自分を信じて、相手を信じて進むと徐々に相手の小さな息遣い、表情、

体の緩みを感じていきます。


これはアーサナにも繋がります。

シュリカリのヨガアーサナは誰にも触れられることなく流れていきますが、

目を閉じた中の神聖な自己の息遣いや表情や身体が緩んでいくのを内側から感じていくもの。

「体は借り物」とはいうけれど、本当だな〜と感じます。

自分自身をマッサージするように、丁寧に丁寧に、怠けるのではなく、優しくしっかりと進めていく。

不必要にセクシャルに、不必要にナルシス的にではなく、素直にゆるす。


言葉のニュアンスが難しいのですが、「リラックス、緩める」ことは決して

妥協することではなくて、自分をうつくしむこと。


誰かと比べず、自分にも争わず、素直な呼吸に身をゆだねると、いつの間にか

心地いい自分のリズムに戻ります。


アーサナ中、私は後ろから声をかけさせてもらっているのですが、

お一人お一人の自分のペースでの流れを見守っていると、まるで

命の営みを見ているような感覚になります。


以前、私のヨガをとても気に入ってくれた方々から、いろんな例えを聞きました。

その中で「白黒映画を観ているよう、うっとりするわ」と仰ってくれた方がいます。

確かにそうだな〜と、私もつい見惚れる瞬間があります。

(目の前の色がないってことではないですよ)

一連の流れが終了して、最後のシャヴァーサナ。

襖を開けると南から気持ちいい風が舞い込んで。

お勤めに向かうお坊さんたちの足音がカタカタと通りすぎ、

そろそろ起きるかな?

と思うと丁度いいタイミングで鐘がゴーンと鳴り。


どれも意図したものでなく、自然と完成された空間でした。



哲学のあれこれをお話しようかなと思っていたけど、

これは言葉要らないな〜と後ろから皆さんを見守りながら

この垣根のない調和された空間、神々しいみなさんの背中に感動してました。

みんなが仏の心に無意識に調和している、そんな光景でした。

ありがとうございます♡


アーサナ後は、自由に風を感じて、目の前の景色を楽しんで、グルメ情報に

話が咲き、キラキラした和やかな時間。

自分をうつくしむと、隣の人もうつくしめる。

こんな風に暮らしの中にヨガが浸透していくことが、ありがたい。


養豚業を生業にした家に生まれたこと、自分が生死の境を経験したこと、

それゆえ「死はいつも身近にあるもの」と感じた子供の頃。

すでに私は新しく生み出すより「再生」させることが

好きだったみたいです。

人が本来の自分に帰る空間を提供できることに嬉しく思います。


来月は雨引山の紅葉も進んでいるはずなので、またその景色も楽しみです🎶



Jnana〜ニャーナ〜

自分をゆるめて ゆるして 大きな愛で包む時間 頑張る自分だけでなく 弱い自分も好きになるヨガ 自分のペースで 自分の呼吸にゆだねて 自由に感じる

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